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  • 執筆者の写真鈴木ひでひと

和幸さまとの出会い 

おつかれさまです。


あっという間に12月、そしてもう中旬。何とは無いのですがなぜかせわしなく感じますね。


お越しくださいましてありがとうございます。ひでひとです。今日は板前昔話、アタクシの修業時代、東京目白の「茶懐石 和幸」主人、高橋一郎氏との出会いについてのお話です。



アタクシ、高校を卒業してすぐに料理の道にはいったのですが、一番最初に行った店は京都のお店でした。厳しいと評判のお店で、父が知り合いの方と探して決めたそうです。そしてお店に入る前には丸坊主にするようにという指示があって、文字通り頭を丸めて出かけました。


忘れもしないのですが、父が磐田駅まで送ってくれた時にアタクシが手持ちのバッグを何気なく地面においたとき、何かが割れる音がしました。当時は修業に出る時自分の食事道具は持っていくものと父に言われて、普段使っていたお箸とお茶碗を新聞紙に包んでバッグに入れておいたのですが、それが真っ二つに割れたのでした。何かを暗示するようなその出来事は半年後に現実になります。鈍らで我慢のできないアタクシはその店の厳しい修業に耐え切れずお店を辞めました。






次の修業先を探すのにも、あまりいい辞め方ではありませんでしたので、父は随分と苦労したと思います。そこで焼津にある茶懐石のお店にアタクシと父、そして父の友人で後にアタクシの書の師匠となる金山土洲先生と食事に出かけたのでした。そこで父は温石さまのご主人、杉山元幸さまにアタクシの修業先を探していてできればここで修業させたいと願い出たのでした。温石さまでもちょうど若い人を探していたのとの事、さっそく話はまとまりました。


焼津での板前修業を続けているうちに、温石さまの修業先である和幸さまへのお手伝いにお供させていただく機会がやってきました。それまでは温石さまお一人で行かれていて、やっと自分も連れて行っていただけると嬉しくまた緊張したものでした。


もう30年以上経つのでどんな仕事かあまり覚えていないのですが、言われるまま荷物を運んだり洗い物をして2日間お手伝いをしたように記憶しています。おそらくは数百人規模での仕事だったのではないかと思います。温石さまは一日でお帰りになり、2日目の仕事が終わると和幸、高橋一郎さまはアタクシを東京駅まで送ってくださいました。


アタクシにしましても一人で東京にきたのは初めての事、目白から東京まで山手線で行けばいいのですが、おやじさん(和幸では主人を『おやじさん』と呼んでいます)はきっと田舎から出てきて迷うといけないからと東京駅まで送ってくださったのでしょう。


そして、わざわざホームまで送ってくださって帰りの車内で食べるようにとサンドイッチとコーヒーを買って下さいました。多分夜7時ころだったと思うのですが、初めての環境に加えて温石さまの修業先、つまりは親方の親方のお店でのお手伝いをなんとか終えることができ少し安堵していました。案内板の時刻を確認したおやじさんは、気を付けて帰るようにとこれからも温石でがんばるようにとお声かけ下さって、ホームの階段に向かっていかれました。その時アタクシは、今思い返しても何を考えていたのか、わかりません。ホームの椅子のそばにいたのですが、腰掛けもせずにおやじさんの後ろ姿を見るでもなく眺めていました。本当に何も考えてなかったんでしょう。疲れてすぐ座っても良さそうなのですけどね。


するとホームの階段に差し掛かったおやじさんがくるっとこちらに向き直り、ニコニコ笑いながら軽く手を振ってくれたのです。アタクシはもうただただビックリするのと、「座ってなくて良かった!」と安心した気持ちでいっぱいでした。ぐったりと座っておやじさんのご挨拶に気づかなかった、なんて事があったらアタクシはともかく、温石さまにも良くありません。おやじさんが見えなくなり、しばらくするまで座る事が出来ずに立っていました。もし、新幹線に乗るまで心配だからと戻ってきたら、と思うと姿が見えなくなってもすぐに座ることなどできなかったのです。それでも、もう良いだろうと腰掛けると、2日間の疲れと今の緊張がどっと押し寄せて大きなため息が出たのを覚えています。だらけて座ってなくて良かったぁぁぁと、心底思いました。


これを機会に焼津にいた時に3~4回ほどお手伝いに出かけました。調理をするというより盛り付けや後片付け、大勢さまの仕事だと数を確認したりという感じでした。




焼津での修業は6年ほど、その後東京に行くようになったのもおやじさんのおかげでもありました。


その日もいつものように温石さまで夜のお客様のお料理をしていました。その時、温石さまにはアタクシの下にもう一人若い板前が入っていて、そろそろご飯も出て最後のデザートとお菓子だけになって器を洗ったりしていると一本の電話がなり、温石さまに取り次がれました。そして温石さまはアタクシに「おい、ひでちゃん。おやじさんから電話だぞ」と言われました。アタクシも「はて?どんな御用だろう」と疑問に思いながら電話に出ると「東京にでて来て和幸で修業しないか」との事でした。突然のお話にアタクシは嬉しくて、迷う事無く二つ返事でお返事したのを覚えています。おやじさんの話では今いる若い衆が一人お店を離れるとの事、欠員がでるからアタクシさえ良ければ和幸で修業しないかという事でした。



嬉しかったのは決して温石さまの居心地が悪かったのではありません。温石さまのご両親はもともとお蕎麦屋さん、アタクシも温石の仕事が少ない時は、お蕎麦屋さんの天ぷらを揚げたり出前の配達や器の回収で車を運転したりしてました。そしてお昼ごはんはほとんどお蕎麦。アタクシお蕎麦は毎日でもいいくらい好物でしたから全く気にならず毎日食べれて嬉しいくらいでした。女将さんも親方も厳しい時は厳しいですが、それ以外は優しく、また親方のご両親、お蕎麦屋さんの職人さんやパートさんも良い人ばかりでした。



焼津でのお話はまた後日に譲るとして、そんな良い環境と人に恵まれた温石さまを離れるのには全く迷いがなかったのでした。


おやじさんに「ぜひお願いします。」と返事をし温石さまに電話を替わりました。

温石さまはアタクシに「おやじさん、なんて言ってたんだ」と聞きます。


アタクシ「東京に出てこいとのお話でした」

温石さま「で、お前何て返事したんだ?」

アタクシ「ぜひお願いします、と言いました」


すると温石さまは、少し怒ったような苦笑いをして「なんで俺に聞かないんだよ、お前は」と言われ、もうアタクシはこんな大切な事を勝手に決めてしまって申し訳なくて、慌てて平謝りでした。しかし温石さまは「いずれはおやじさんのところで、とは思っていたんだけど、俺にまず言わなきゃおかしいだろ。それに磐田のお父さんはどうなんだ?」と、ご自分のお気持ちよりもアタクシの父親の事を気遣ってくれたのです。アタクシは「ウチでもいつかは東京に、と言ってましたので、大丈夫だと思います」そう伝えると「そうか、それならいいけどな」と言ってくれました。



これは後から聞いた話ですが、アタクシの下に入った若い衆はもともと和幸さまでの修業を望んでいたとの事でした。しかしその時は和幸さまにも空きがなくて、しばらくは焼津で

ということになったそうです。でも、それならばどうしてアタクシが呼ばれたんでしょう。後輩が行くのが先だと思ったのですが。


和幸にいた時に奥様に言われたのは、「焼津に預けていた子から、しばらくは焼津でがんばりたいという手紙がきたのよ。それならひでちゃんを呼ぼうとなったわけなの。それにひでちゃんが電話の時にすぐ『行きます』って言ってたのが良かったみたい」と言われました。「そうでしたか。いや実は奥さん、そのあと温石さんに云々…」と件のお話をしましたら奥様はそれもご存じで、「だからなのよ。誰彼に相談しないと…が無かったから良かったんじゃない?」のような会話をしたのを覚えています。


いやはや人生何がきっかけになるかわからないものです。


焼津での6年ほどの修業の後、アタクシは東京に向かいます。初めての土地、そしてお昼懐石でも15000円という高級なお店、焼津でがんばってきたことがどこまで役に立つのかなど、不安を抱えてアタクシは東京での修業を始めることになります。そのお話、そして焼津でのお話はまた後日と致します。



お店を上がる(辞める)時にいただいた鱧切り包丁。 「贈 英仁さん江 和幸より」と刻まれています。



こういうお話はあんまり需要がないと自覚しています。ですが、どこかでアタクシの関係ではない方の目に触れて、すでに故人となられた方々を思い起こすよすがにでもなればいいなと思っています。また、アタクシに何かあった時、残された人にアタクシがどんな人にお世話になってきたのかを知ってほしいという思いもあります。こんなコト言うようになるなんて年とったんだなぁと思いますけど、まぁいいでしょう。また、温石さまのご両親、和幸のおやじさんと奥様はきっとあちらの世界でアタクシが話を都合よく変えないか、見張ってくれているでしょう。ことにおやじさんは「おい、あんまり自分をカッコよくするなよ」と、奥様と笑ってくれているかもしれません。



今日もここまでお読みくださってありがとうございました。この次にお会いする時まで皆様にステキなコトがたくさん訪れますように。それでは、また。ごきげんよう。





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